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追悼 [エッセー]

<追悼> 生涯お世話になった鶴見さんが逝った (中)

                     長沼 節夫

 

  雑誌「朝鮮人」を創刊

 雑誌創刊を鶴見さんと飯沼さんのどちらが言い出したのかは知らない。「朝鮮人を苦しめるこの収容所が廃止されるまで出し続けよう」と言い、表紙に「朝鮮人・大村収容所を廃止するために」と大きく刷り込んで毎号、須田剋太さんが表紙絵を無料で寄せてくれた。司馬遼太郎の「街道を行く」に挿絵を描いていた画家だ。当初、塩澤由典・石山幸基と私が、また我々が去った後は小野誠之弁護士が加わったが、中心はずっと2人で、93年、本当に収容所を廃止に追い込んでしまった。「私が目的を達成した雑誌は生涯でこれ1つ」というのが、鶴見さんの自慢だった。



糾弾会で鶴見批判を迫られ

 「思想の科学」に書かせてもらった「朝鮮69」という韓国ルポを鶴見さんは褒めてくれたが、間もなく関東から来た朴某という女性作家から、「ルポについて話してほしい」と呼び出された。講演か何かかと大阪郊外の集会所に行くと、「いいルポだ。誰の発案で?」と聞かれ、鶴見さんにと答えた。やがて部屋の空気が険しくなった。彼女が、「始めはすばらしい迫真の韓国ルポと思った。しかし怪しい。緊張した北と接する村、陸軍病院潜入報告など読むと、軍事政権下でこんな取材はできるはずがない。これはスパイにしか書けない内容だ。あなたはスパイではないのか」と言い出す。取材のいきさつなどを説明したが、会場から「怪しい奴や」「いてもうたれ!」などのヤジが飛ぶ。どうやら組織的な糾弾会に呼ばれたらしい。やがて深更、彼女は、「鶴見批判を言え。ここにテープも回してるよ」と凄んだ。

 「鶴見さんは米国プラグマチズムから多くを学んだ。一方左翼を自称する我々若者はそれに批判的だ。学生はやたらにアウフヘーベン(止揚)とか『乗り超える』とか口にするが、鶴見さんの思想の高みにまで至った者が1人でもいるか。私にとって彼は学ぶべき高みでしかない。批判などとてもとても」と答えた。阪急の1番電車が走るころ、やっと解放されて京都へ戻った。



 歴史的企てだった脱走米兵支援

鶴見さん、小田実さんが中心になって立ち上げた「べ平連」運動に直接参加することはなかったが、2人の仲間の塩沢さんから時々、「今夜米国人を2人泊めて、朝食だけ上げて」と頼まれ、2つ返事で引き受けていた。後で考えれば、ベトナム反戦の脱走米兵を私も加担していたわけだ。あの超大国アメリカに対抗して米兵に脱走を呼びかけるという、とてつもない企ては鶴見さんらべ平連の勇気と知恵の結晶だった。米兵は安保条約上の存在なので、警察は彼らにも、また彼らをかくまうべ平連に手も足も出なかった。

そんなある日、鶴見さんは私ら夫婦を自宅に呼んだ。「赤ちゃんが生まれたそうだね。もしいやでなかったら貰ってほしい」と言われ、段ボール1杯のベビーウエアだった。「うちの太郎も大きくなって今は着られないので」と言われ、ご夫妻の心遣いに感激した。

(2015.7.28.記=つづく)


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