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追悼 [エッセー]



<追悼> 生涯お世話になった鶴見さんが逝った (下)

                 長沼 節夫



 「日本読書新聞」事件で声明書

 きっかけは70年代ある日の雑誌「朝鮮人」の編集会議での鶴見さんの発言だった。「韓国青年同盟は凄いね。朴正煕軍事独裁に支配される民団の傘下にありながら、朴批判を強めている。正に命がけの団体だ」という。東京から来た「日本読書新聞」の編集員にそれを話すと後日、「インタビュー記事にしてほしい」と言われた。韓青同の友人に相談すると、「危険が大きいが匿名なら」と応じてくれた。それが載ると「一部から強硬な抗議が来ている。誰が書いたんだと。勿論漏らしていないが、前後策を話し合いに編集長がそちらに向かう」と言ってきた。大阪駅で会ってみると、漏らしていないどころか、強そうな青年たちが背後にいる。中から女性が進み出て、「長沼さん、また会いましたね。また誰かスパイに書かせた記事でしょう」と言った。前回、「思想の科学」記事で私を糾弾した同じ人物だった。

「確かな記事だ。しかし夕刊フジへバイトに行く時間なので、これで失礼する」と言うと全員が産経新聞社内に乗り込んできて、女性が編集部で、「皆さん、彼はスパイです」と叫んだ。デスクが「長沼に指一本触れないこと」という約束を取り付けてくれ、京都へ帰宅したが、ひと晩中監視が立った。彼らの事務所に連行されて2日目、「ある人物を面通ししてくれ」と言われ、出町柳に近い喫茶店に行くとその人物がいたが、私が直前に相談した小野弁護士に言われた通り、「私はこの方をインタビュー相手とは現認しない。後は裁判でも何でも受けて立つ」と答えると、屈強な青年に投げ飛ばされた。「諸君、やめなさい。そうだ僕が長沼さんに喋った。しかし記事は間違っているか」。「いいえ。ただ東京から来たこの女が…」と言って振り返ると、女性はいつの間にか姿を消していた。

 翌日、読書新聞から「どんな謝罪条件にも応じる」と言って来た。翌週、社告が載った。「匿名インタビューを取り消す。筆者の欺瞞性を見抜けなかった点を読者に謝罪する」とあった。そのズルさと偽善にびっくりした。

 私の話を聞いて鶴見さんや飯沼さんは怒った。そして評論家星野芳郎、歴史家井上清教授の4人連名で抗議声明を作り、活版印刷し、自分たちで全国の新聞社宛て発送してくれた。「読書新聞社の今回の行為は朝鮮問題の報道や自由な言論を阻害する。貴社におかれても留意してほしい」と。一介の大学院生兼駆け出しのルポライターに対する鶴見さんらの思いやりに感謝する。



「声なき声の会」

 60年安保闘争の高揚を見た岸信介首相の有名なコメントに反発して同年生まれた「声なき声の会」は、1人でも入れる反戦平和の会で、呼びかけ人の画家小林トミさんが代表を務めた。鶴見さんは最初からの会員で、東大生樺美智子さんの命日に当たる毎年6月15日には京都から上京して池袋での例会に欠かさず参加した。参加者は全員が現在自分の抱えている問題や悩みを話し、トミさんや鶴見さんがコメントし励ました。その後、都合のつく参加者はで地下鉄に乗って国会議事堂に移動し、樺さんが殺されたらしい南通用門で献花した。それはトミさんが亡くなる半年前、2002年まで続いた。6・15の献花は今、元全学連の闘士だった年配者や彼らの弁護士だった内田剛弘さん、日本山妙法寺の僧らに引き継がれている。鶴見さんはトミさんに贈った名文の弔辞は彼の著書で見られる。



 私たちの時事通信闘争も励ましてくれ

筆者の勤めた時事通信社では、闘う少数派の組合員は徹底的に差別され、定年までヒラ社員とされたり、処分攻撃を受けた。科学担当で反原発派のの山口俊明記者など、自費で欧州原発取材に向かったが、途中で「業務命令」で呼びかえされたりして、「バカンス裁判」を起こした。次に長期休暇を取った時には懲戒解雇され、早くに死に追い込まれた。

筆者の場合も定年までヒラだっただけでなく、「天皇・マッカーサー会見公式記録」を国会図書館で入手し、報道しようとしたが、社は「スクープに非ず」として報道しなかった。とうとう東京都労働者委員会に訴えた。このときも応援してくれたのが鶴見さんで、「天皇・マッカーサー会見録」は、50年後の今日も価値を失わない重要な資料です。時事通信社が特ダネをどのように定義するか私は知りませんが、新聞研究者のひとりとしてこれは特ダネ…大学生のころから知っている長沼節夫さんが社長側の弁護士にくるしめられているのを都労委記録で読んで、証言する」などと手書きの陳述書を送ってくれた



小田実の葬儀委員長

「べ平連」の同志だった小田実が2007年亡くなったときは、葬儀委員長という大きなリボンを着けて立ち、小田夫人と娘さんの脇にいて参列者ひとり1人に挨拶し、夫人に紹介して立ち続けた。鶴見さん既に85歳、疲れを隠せなかった。翌年、都内で開かれた「小田さん1周忌の集い」に夫人と一緒に上京されたのが、筆者がお目にかかった最後となった。

今月18日に私学会館で開かれた「小田さん8周忌」をのぞいたが、鶴見さんの姿はなかった。今思えば、鶴見さんは死の床におられたのだ。長いご恩に対し、お礼もいえなかった。ご冥福を祈る。(2015.7.30記=おわり)