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2017年7月

1日(土)
先日記録した元南ドイツ新聞東京特派員G・ヒールシャー記者の1970年記録を起こす。彼がフリーから特派員になって最初の大事件は、11月の作家三島由紀夫割腹事件だった。いち早く現場に駆けつけて彼が「自衛隊諸君に決起を呼びかける」と演説をしたバルコニーのすぐ下でメモを取っていたが、集まった当の自衛隊員たちはニヤニヤ笑っていた。まじめに耳を傾けるものは1人もなかった。これをみて記者は最初から不成功と分かったという。大阪万博は3~9月の半年間。何度か東京から出張して記事を書いたという。
 当時おれも大阪夕刊フジの嘱託記者として、会場内の記者クラブを拠点に取材していた日々を思い出す。期間中の6月、長女夏子の誕生も忘れられない。かかりつけ病院では、「予定日はまだ先なので痛くても我慢しなさい」と言う。しかしどうにも我慢できないと言ってタクシーで左京区鹿ケ谷の自宅から京都西部の病院にタクシーで向かったが、妻が「もう死にそう。運転手さん、どこでも近くの産院に車をつけてください」と訴えた。中京区の小さな町医者に飛び込むや、奥でオギャーオギャーと元気な泣き声が聞こえたっけ。夢中だったので運転手の名も産院の名も覚えていない。
 万博については全共闘系の学生が反対を叫ぶだけでなく、「反博」という闘争形態を考え出して、大阪の各所で集会や討論会を開いた。中でもその弁舌が好評で、あちこちからお呼びがかかったのが大村収容所から仮放免中だった任錫均氏だった。彼は日本人の中にある朝鮮人差別の構造を激しく攻撃した。そんなある日、彼は神戸の入管事務所に収監された。これあh大変だ。このまま大村収容所に運ばれれば、韓国に送り返され消されてしまうかもしれないと、ベ平連や全共闘系の若者が多数、神戸入管を取り囲んで、「任氏を返せ」とシュプレヒコールを叫んだ。法務省側は収監理由を「密入国者任は病気治療が必要という名目で仮放免したが、各所で演説をするなど健康そのままの振舞いだ」とした。結局、当方の医師・弁護士・学者が仲介し、本人をなるべく演説を控えさせると確約して、身柄を取り戻したのだった。(つづく)